地球を守るために〜探し求めてきた私にも出来ること〜

地球が破壊されていく恐怖。

 

この気持ちを小学校の頃に抱いたころから、環境問題に目を向けるようになった。林業を家族がしていた家庭で育った私は、森林伐採二酸化炭素が増加することやオゾン層の破壊に繋がるテレビや授業を聞いて、なぜ木を切る仕事をするんだろう、、と親には言えなかったが、親の仕事に疑問を抱いていた。

 

また小さい頃から死の恐怖もあり、環境が壊れていってしまったら、

 

地球の資源もなくなり、私達も生きられない、そんな日が来る事を想像すると怖くなった。

 

こんなことを考えていたことから将来は、地球の環境問題解決に向けて、何か貢献できる大人になりたいと考えていた。

 

中学の頃は気象予報士の資格でも取ろうかと考えてみたが、想像以上にハードルが高く、諦めてしまい、かといって何か出来そうなことはない。

 

高校の頃は、大学には行くと決めていたが、どの道に将来進むか悩んだ。というのも環境問題と要っても幅が広すぎて、どれか1つの学部に絞り込めない。それなら環境の政策について学べる事が広いことに携われるのか、とも考えたが、これまた志望したい大学はトップレベルの所だったので、自分の実力とあわない。結果的に地方の公立大学に進学し、海洋の生物について学ぶことになった。

 

今後は大学生の就活時。

 

社会に出ればもっと広い分野で何か出来ることがあるのではないか、、とかすかな希望を抱いて、就活を始めるが、また同じ壁にぶつかる。

 

やはり環境問題という分野が広すぎて包括して解決できる道が見つからない、私はどの方面が合っているのだろう。

 

近年は、SDGsに参画している企業やNPO等も非常に多いが、やはり17の分野からいくつかに絞って取り組んでいますよ、という企業、団体がほとんどだ。

 

もっと地球全体にいい影響を及ぼせるような、

解決できる道はないのか、、、こんなことを大学3年の終わり頃には考えていた。

ピンとくる会社が正直どこもなく、かといって自分のこともよくわかっていない。

悶々とした日々の中で、行き着いたのが、私の力で解決できることはない。

じゃあどうするか、世の中の課題解決できる人が、子供達が、この地球に、日本に多く育ってくれたら、私一人ではできない地球を救うことが出来るのでは?

 

そんな気持ちが固まった大学4年生の4月のこの頃、民間の教育の会社の内定に繋がった。

 

そして、新入社員1年目を迎えたが、私のやりたいことはやはりこれじゃないな、5年は続かないなと思いながら、入社3年までは環境問題のことを諦めきれずにいる自分もどこかにあった。

しかし、社会人生活って恐ろしく、そのうちその気持ちも気付いたら消えてしまい、会社の夢、目標を掲げるために働くような自分にいつしかなっていた。

 

子供の頃に抱いていた夢、希望、成し遂げたいこと、大人になるにつれて、

なぜ現実に縛られ、失ってしまうのだろうか。。。

私ができること、どこに行けば見つかるのだろう。。そんな過去を過ごして、

環境問題への関心、というか地球が壊れる恐怖も薄くなってしまっていった。

 

その過程を経て、

いま再びやっぱりいきつくのは、

幼少期の感じてきた思いの実現。

地球を根本的に救える道を探して、

生きていきたい。

後悔せず、成し遂げたい、

地球のために。

みんなのためにできること。

 

地球が破壊される恐怖〜自分には何が出来るんだろう〜

地球が破壊されていく恐怖。

 

この気持ちを小学校の頃に抱いたころから、環境問題に目を向けるようになった。林業を家族がしていた家庭で育った私は、森林伐採二酸化炭素が増加することやオゾン層の破壊に繋がるテレビや授業を聞いて、なぜ木を切る仕事をするんだろう、、と親には言えなかったが、親の仕事に疑問を抱いていた。

 

また小さい頃から死の恐怖もあり、環境が壊れていってしまったら、

 

地球の資源もなくなり、私達も生きられない、そんな日が来る事を想像すると怖くなった。

 

こんなことを考えていたことから将来は、地球の環境問題解決に向けて、何か貢献できる大人になりたいと考えていた。

 

中学の頃は気象予報士の資格でも取ろうかと考えてみたが、想像以上にハードルが高く、諦めてしまい、かといって何か出来そうなことはない。

 

高校の頃は、大学には行くと決めていたが、どの道に将来進むか悩んだ。というのも環境問題と要っても幅が広すぎて、どれか1つの学部に絞り込めない。それなら環境の政策について学べる事が広いことに携われるのか、とも考えたが、これまた志望したい大学はトップレベルの所だったので、自分の実力とあわない。結果的に地方の公立大学に進学し、海洋の生物について学ぶことになった。

 

今後は大学生の就活時。

 

社会に出ればもっと広い分野で何か出来ることがあるのではないか、、とかすかな希望を抱いて、就活を始めるが、また同じ壁にぶつかる。

 

やはり環境問題という分野が広すぎて包括して解決できる道が見つからない、私はどの方面が合っているのだろう。

 

近年は、SDGsに参画している企業やNPO等も非常に多いが、やはり17の分野からいくつかに絞って取り組んでいますよ、という企業、団体がほとんどだ。

 

もっと地球全体にいい影響を及ぼせるような、

解決できる道はないのか、、、こんなことを大学3年の終わり頃には考えていた。

ピンとくる会社が正直どこもなく、かといって自分のこともよくわかっていない。

悶々とした日々の中で、行き着いたのが、私の力で解決できることはない。

じゃあどうするか、世の中の課題解決できる人が、子供達が、この地球に、日本に多く育ってくれたら、私一人ではできない地球を救うことが出来るのでは?

 

そんな気持ちが固まった大学4年生の4月のこの頃、民間の教育の会社の内定に繋がった。

 

そして、新入社員1年目を迎えたが、私のやりたいことはやはりこれじゃないな、5年は続かないなと思いながら、入社3年までは環境問題のことを諦めきれずにいる自分もどこかにあった。

しかし、社会人生活って恐ろしく、そのうちその気持ちも気付いたら消えてしまい、会社の夢、目標を掲げるために働くような自分にいつしかなっていた。

 

子供の頃に抱いていた夢、希望、成し遂げたいこと、大人になるにつれて、

なぜ現実に縛られ、失ってしまうのだろうか。。。

私ができること、どこに行けば見つかるのだろう。。そんな過去を過ごして、

環境問題への関心、というか地球が壊れる恐怖も薄くなってしまっていった。

 

その過程を経て、

いま再びやっぱりいきつくのは、

幼少期の感じてきた思いの実現。

地球を根本的に救える道を探して、

生きていきたい。

後悔せず、成し遂げたい、

地球のために。

みんなのためにできること。

 

初めて身内の死に触れて感じた無常〜5歳ながらに悟ったこと〜

 はじめて身近な人の死に触れたときに感じた日

 それは冬山で仕事をしていた祖父の滑落死。

 

 当時、保育園に通っていた私は、いつもの時間に親が迎えに来ず、一時間くらい遅くなり、母が迎えに来てくれて、やっと迎えに来てくれたと思った。

しかし保育園を出ると、いつもは車で迎えに来ているが、今日は違う。

これは何かいつもとは違う、と感じた。

そのまま歩いて駅に向かい、電車に乗る。おじいちゃんが救急車で運ばれたから、病院に行くということは多分告げられた。

病院先に行くと、夕方だったので、自分が知っている患者さんであふれている病院の光景とは違い、しーんと静まりかえっている。

 

2月の中旬。林業をしていた祖父は足を滑らせて、滑り落ちたそうだ。

一緒に仕事をしていた人が救急車を呼び、意識はない。先に祖父の妻である祖母と息子である父は病院に駆けつけたらしい。

 

薄暗い、静かな廊下で何時間も待っているが21時を過ぎ、いとこのおじさんが遅いからと言って、祖母や父は病院において、母と私、1歳の弟は今夜は帰ろうと家に帰宅。

翌日、朝起きると、亡くなっていた。いつ遺体が自宅に運ばれたのかは覚えていないが、どんどんいとこ家族が自宅に集まってくる。まだ死というものがわかるようなわからないような頃だったが、いとこと会えるのもちょっとうれしさはあったが、みんな私より何歳か年上だったので、事の事実を私よりは悟っている印象にみえた。

また田舎で比較的広い家だったので、通夜、葬儀は自宅で行った。家族や親戚中が泣いている姿を見て、不謹慎かもしれないが、なぜ泣くのだろうと思いながら、ここは泣く場面なんだな・・・と捉え、合わせたらいいのかなと違和感を感じながらも泣いてみようと思った。。

 

葬儀が終わってからも祖母は落ち込んでおり、亡くなった日の朝のことがいつもと変わらない中で、唯一違ったというのは仏壇にあげた線香がその日は消えてしまったと話すことが何度かあり、死が訪れるときは何か前触れのようなことは起きるのかな・・・と祖母の話を聞きながら、一人で考えた。

また、みんなまだ雪が氷になっているような日に出かけたこと悔やんでいたが、何か死を迎えるにも何か理由があるんじゃないか・・・と周りには言えなかったけど、そんなことを感じていた。

60歳過ぎたばかりで体力仕事をするくらい元気だったが、あっという間にこういう日が訪れるんだな、、と感じる。今は父がその年齢を超える。。

 

いつ何が起きるか人生って分からないんだな、とはじめて触れた死、身内の死から違和感と無常感を感じた。

 

自分の生きる意味とは…ブログをはじめようとした思い

 双子で生まれ、相方である姉は、生後1日に他界しました。
 物心ついた頃、親からこの事実、私には姉がいたことを教えられました。
 あなたも未熟児で生まれたけど、1か月の保育器で過ごし、あっという間に大きくなり、健康に育ってくれたと。。。
 そんな話を聞いてから、『私だけなぜ生き残っているのだろう・・・』と考えるようになりました。
 特に親に怒られたときは、『本当は私は両親の子ではなく、養子ではないか?』と死んだ姉に対して、愛情をまだ向けられていることから嫉妬してきたこともありました。
 ただその反面、、、
 『姉の分まで生かされている意味があるのではないか』
 『人の2倍の能力が自分にはあるのでは?』と小学校のころには考えていました。
 そんな意味を考えながらも、死ぬことの恐怖も覚えるようになりました。
 特に夜、寝るために布団に入ると、、、
『今寝てしまったら、もう私も起きないんじゃないかな』
『このまま死んでしまったらどうしよう』と、、健康で何不自由ない生活七に、こんな恐怖を感じることは日常茶飯事。
でもこんなこと、誰にも言えない。。

 こんな幼少期がきっかけで、『生きることに全力、生きる意味を見つけたい』と学生のころは模索しました。

社会人になり数年たち、そんな気持ちを忘れていましたが、
ここで人生立ち止まって、いまもう一度、
当時の純粋な気持ちを追い求めたいと思い、
これからは自分の内に閉ざしていた扉を開いていこう、
自分に正直になろうと思い、
『生きること』をテーマにブログをはじめてみます。